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破天荒な海外生活ブログ

ニュージーランド、オーストラリア、そしてカナダ。転々と放浪中

喜怒哀楽の「楽」が欠落した自分のルーツを探る

感情表現が豊かな人って、喜怒哀楽の感情が表情や言葉によく現れてきますよね。


感情表現が豊かというのは喜怒哀楽の有無ということであって、それで優劣がつくようなものでは無いとは思います。感情の強さによって、メリットもデメリットもあるでしょう。


それでも、個人的にはもっと感情表現豊かになりたいなという気持ちはあります。私は喜怒哀楽を表情や言葉に出すのが苦手で、表に出すよりは隠したり我慢したりしてしまうのです。


ただ一番の問題なのは、「楽」の感情が他の感情に比べて欠落していることです。何かを達成したときには嬉しくなるし、嫌なことがあれば怒りがこみ上げてくるし、辛いことがあれば哀しくなります。しかし、今までの自分の人生を振り返ってみると「楽しい」と感じた出来事がほとんど思い出せないんですよね。


いや、友達がいなくて孤独で寂しい生活をしてきたとかいうわけではありません。誰かと一緒にご飯食べたり、喋ったり・・・それはもちろん楽しいという感情はついてくるのですが、そういう場合はどちらかというと「嬉しい」とか「ありがたい」という感謝の気持ちに近い感じなのです。友達と一緒にいて嬉しいけど、自分自身は心の底から楽しんでいないというか。


心の底から楽しかったという記憶を思い起こすとなると、小学生の頃まで遡らなければいけません。あの頃は勉強とかは大嫌いだったけど、遊ぶときはちゃんと心の底から楽しんでいたよなぁと。特に小学生3年、4年くらいの頃が自分の人生で一番楽しかった時期です。あの頃以降、人生楽しいって思ったことほとんど無いですからね。死にたくは無いから仕方なく生きているという程度です。


何で小学生の頃は楽しかったのか。何よりもまず、あの頃は先入観もなく、良い意味で何も考えていなかった、ということが挙げられます。将来のことを不安に思うことも無かったし(そもそも将来のことなんか考えていなかった)、1日1日を思いっきり楽しんでいた記憶があります。


人見知りなんて言葉を知らない状態で、友達もそれなりにいたので、今と比べると気兼ねなく話せる時間が多かったのも理由の1つです。


良い意味でバカだったんですよね。実際勉強は大嫌いで、テストの点数もクラスでびりになることもしばしば。当時はバカであることをあまり気にせずに日々を過ごしていたということが大きかったのかなと思っています。


でも小学校の高学年になると、自分がバカであることが恥ずかしく感じてしまったのですね。学習塾に通い始めたのも小学6年生。中学校に入ってからは新しい人が増え、自分が人見知りだと思い知らされたのもそのときです(当時はそんな言葉知らなかったけど)。


恥ずかしいという理由だけで、好きでもない勉強を始め、成績が上がって周りからも真面目なやつと思われるようになりました。そしたら、自分もその視線に合わせるように、真面目なふりをするようになってしまったんですね。


そうなるともう駄目です。元々好奇心がほとんど無い人間だったため、どこかに逃げ場があるわけでもなく、ただただ何の特徴も無い自分を育てていくことになります。


勉強は既に述べたように嫌いなので、やったところで頭が良くなるということはありませんでした。テストで良い点を取るのと、頭が良いということは違いますからね。


まぁ、そのままずるずると来て、今に至るわけです。自分の思惑とは違う自分を演じていて、素直に楽しいと思えなくなってしまったのかなと。たまに思いっきりバカみたいに笑ってみたいとか思うのだけど、今まで作り上げられてしまった無意味なプライドやらイメージやらが邪魔して、もうバカになりきれない。そんなだから喜怒哀楽の「楽」が欠落するようになってしまったのかなぁと考えています。


まぁ本来大人には大人なりの楽しみ方があるのかも知れませんが、それにはやはり好奇心が大切ですよね。好奇心が無く、真面目な自分を演じている今の状況では何事も楽しめないのは仕方のないことかもしれません。


それを解決するにはどうしようかと考えても、どうすればいいのか分かりません。こういうこと言うと、考えるんじゃなくて行動しろって話になるのですが、どんな行動をとればいいのか分からないんですよね。だからこんなことだらだらと書いている訳ですが。


感情って思考から生まれるものではありませんので、いくら考えたところで楽しいという感情が出てくるわけでは無いとは思うんですけどね。というか本来何かを楽しむってことってもっと単純で簡単なことのはずじゃあ・・・。